僕は愛媛県生まれです。
銅山があった工業都市ですが、米や野菜をつくる農家で、市街からは離れた山のほうに家はありました。
40歳という年齢だとしても、同じ学区内でも五右衛門風呂とぼっとん便所は珍しかったと思います。
ぼっとんってアレですよ、自分たちの糞尿を汲み取って肥料として再利用するやつです。近所にはそれを汲み取るバキュームカーというのが通っていましたが、うちまで入る道が狭かったからか、バキュームカーは来なくて、おじいちゃんがくみとって畑に撒いていました。ウジ虫っていうのが湧くので、ウジ殺しみたいな薬品を撒いたりもしてました。
ちなみに今でもお湯の一部はソーラーからの供給だし、トイレも簡易水洗です。下水道のインフラってそんなもんなんですね。実用面では水洗と変わらないので(匂いもしないし)何か文句を言いたいわけではありません。
テレビもですね、観たいアニメは広島ホームとか、テレビ新広島という、瀬戸内海をはさんだ本州側からの配信が頼りなんです。しかしうちは電波の調子が悪くって、Uをいい具合に調整すると雨の日には映るかなー程度。おじいちゃんがザーザー言う中で音だけ聞いたりしてたこともありましたが、まあ実用には耐えませんでした。
田舎特有の価値観としては巨人かアンチ巨人かという二極化。そこで中高と育ったらまた違った大人になった気がします。
本題に入っていきます。
塾に行くといい点がとれる
小学校4,5年の頃から少しずつ成績を意識するようになりました。オール5とかとる友達がいる中で僕は5の数が2,3個とかであとは4やたまに3があった気がします。体育、図工は2でした。
こんなくらいでも不思議なもので、クラスの中で頭がいいほう、という自意識は芽生えていました。
そして、成績のいい友達が通っていたのが、公文だったり塾でした。
僕は通っていなかった。
親に聞くと別に通わせなかったわけではないといいます。ただ、行くか?と聞くと行かない、と答えたのだと。あるいは聞かれなくてそもそも行きたいと言わなかった、というのもあるかもしれません。
進研ゼミみたいなのの広告を学校帰りにもらって帰っておまけのおもちゃが欲しくてやらせてもらおうと思ったらダメと言われたことだけ覚えています。
公文や塾に通う友達は、学校で習うよりも先のことを知っていました。僕も親戚のおばさんが常に1年上の雑誌を買ってくれたり、うちで母親がやっていた塾の生徒のやる問題をみたりしていて、なんとなく先取りの楽しさを知っていました。
公文や塾に行くと先に何かを知れる。そしてテストでもいい点がとれる。
塾という存在への憧れの原体験だと思います。
大阪への転校そしてZ会
小学校6年生の時に親の転勤で大阪に引っ越しました。
当時ビーパップハイスクールが流行っていて、癖毛とミノルという名前がウケて、「なんか面白いこと言え」とか試されることもなく、かわいがってもらいました。
そういえば半数とは言わないまでもクラスの2,3割のは中学受験をしていた気がします。自分も親もそんな気全くありませんでしたが、既に愛媛と大阪では環境に違いがありました。
中学1年からは通信添削のZ会を始めました(これは親の勧めですね)。
たまに提出期限遅れたり、速達で出すことはあれど、出せずに終わったものはなかったと思います。わりと真面目に取り組んでました。
中1の時に初めて公開模試を受けました。
学区内のトップ1,2を志望校に書いてみました。10人くらいしかいない母集団の中で半分くらいだったと思います。
あまり気にせず勉強は続けていました。
大阪には五木の模擬試験とかいうものがあり、それを1年の終わりくらいに受けました。
偏差値も順位も際立ってはいなかったから覚えてないのですが、学区内の受験者の中で10番だったことだけ覚えています。
少しずつ芽生えてきたのが、公立だとこんなもんだ。世の中には国立や私立の学校があり、そっちのほうが優れているんだ。ということです。
Z会を続けながら、大阪にある国立や私立高校に憧れるようになっていきました。